NO.358-106 旧ブログ記事 NO.106(2015.8.17)
「幻想の中の世界」を、「私の身体」が歩いています。
颯爽と歩いています。
今日も繁華街は人が多いな~
みんな元気そうやな~
よーし、元気がでてきたぞ~
「私」も何かやったろか~
いやいや、あなた=「私の身体」も、幻想の一部分ではないか。
何を言ってるのだ。
誰が何を始めるというのだ。
あなたは風景の一部分なのだよ。
さて、これらを “生み出しているもの” があります。
「私の身体や、繁華街や、お店など」を、“生み出しているもの” があります。
その者だけが “実在” ですが、見ることが出来ません。
それは、“観るもの” だからです。
では、目の前にあるものは、どうして誕生しているのでしょうか?
繁華街もあるし、私の身体もある。
これらを生み出す作業は、“捉える側” が握っています。
“捉える側” とは、“観ているもの” です。
つまり、“観るもの” です。
だから、“観るもの” が変われば、「世界」が変わります。
“観るもの” とは、“わたし” のことです。