NO.550
「エゴ」があるから体験出来る
「感情」を体験することが出来る
そう、これは「エゴ」が無ければ体験出来ないのである
さて、ここに事実として “起こったこと” がある
“そのこと” に
あなたは「あなたの持っている価値判断」を当てはめる
これが「エゴ」
つまり、“事実として起こったこと” と
「あなたの価値判断」との “差異”
ここにズレが有るとき
あなたは「そこ」を体験するのだ
「その感情」を体験するのである
これが「エゴのあなた」である
そして、その先だ
「あなたが持っている価値判断」
この「エゴの人」
事実を言えば
この人は存在していない
この「存在していないエゴの人」が
物事に「あ~だ、こ~だと言っていること」に気付けなたら
あなたは「エゴの人」から出れている
なぜなら「エゴの人」から出てないことには
「エゴの人」には気付けないからだ
さらに言えば
この「エゴの人=思考も感情も」
“感知する別のもの” が居ないことには
「存在すること」が出来ないのだ
そこに “感知しているもの” が居るからこそ
「思考も感情も」存在出来ているのである
つまりは、こちら側の “感知しているもの” の方に
あなたがチャンネルを切り替えたときに
“そこに在るもの”
この “「エゴの人」の外 に在る空間”
この「エゴの人=思考や感情」とは “別のもの”
この “別のもの” が
“本当のあなた” なのである
“ここ” には「人間的な感情」を挟んでない
“純粋な体験” だけがある
これは、“ここ” においてのみ
「善も悪も無い」という状態を
真の意味で “体験する” ということである
そして、“ここ” に在るのは
“微笑み” なのである
「モナリザの “微笑み” 」は
ダヴィンチが “このこと” をメッセージとして込めた作品だったのかもしれない