NO.535
この映画は “神の視点” を描いている映画である
この映画を普通に観てしまえば
「高校生と、時代劇と、タイムトラベル」というギャップのある素材を組み合わせた
「わちゃわちゃした青春映画」のように観えてしまうだろうが
実際には、“神の視点” を描いている映画である
主人公である映画監督役の「ハダシ」が撮ったのは
「『武士の青春』という映画」だが
彼女は、それだけを撮ったのではない
ライバルが撮っている「『大好きってしか言えねーじゃん』というキラキラ恋愛映画」も
“ハダシ監督” が撮っている映画の一部分なのである
つまり「武士の青春」という映画も
「大好きってしか言えねーじゃん」という映画も
「突発的に起きたように成っているラストシーンの演劇」も
すべて含んだものを、“ハダシ監督” は撮っていたのである
つまり「あの映画」そのもの
「『サマーフィルムにのって』という映画そのまま」を “ハダシ監督” は撮っていたのである
これは、あの映画の中に出演している「高校生のハダシの視点」からも飛び出した
“神の視点” から映画を撮っていたということである
そう、今あなたが「この映画」を観ているのと同じ視点からである
つまり、普段の高校生のハダシも「あの映画」の出演者であり
それを出演していない “ハダシ監督” が外から撮っていたのである
つまり、出演者兼、見えていない監督
この “監督の位置”
ここが、“神の視点”
ここに、“本当のハダシ監督” が居たのである
これが、未来で巨匠と呼ばれるように成っているハダシ監督の凄さである
このような映画は、“神の視点” に気付いていないと
なかなか思いつかない映画である
凛太郎は未来からやってきて、また出演者として
「この映画」を観れて幸せだったはずである
そして、もう一つ考えさせられる視点がある
それは「未来には映画は無い」という視点である
これは、我々が “覚醒した” ら
そのように成る可能性が大きいからである
もし、我々が “覚醒” すれば
わざわざ「他人のストーリー」を観ようとは思わないだろうし
それゆえ「他の人たちにフィクションを作って見せよう」とは思わなくなるからである
これは “覚醒後” に起きる、限りなくリアルな話なのである