NO.90-53 旧ブログ記事 NO.53(2017.3.6)
自分の言ったこと、やったことによって、「私」が固定されていきます。
「同じ傾向を持ち続けること」によって、
「私」が、より強固に浮かび上がってきます。
この「私」は、凸 です。
いつも、飛び出ています。
この、飛び出た 凸 から、いつも世界を見ています。
だから、この飛び出た「凸 の範囲」でしか、世界を認識することが出来ません。
これは、凸の部分、つまり「世界の一部分だけを切り取って観ている」ということです。
だから、 “生の全体” を観ようとしたら、この 凸 を捨てるしかありません。
“生の全体” とは、“目の前に在るもの、あるがまま” のことです。
つまり、凸からは、“あるがまま” は観れていなかったのです。
なぜなら、凸と、“あるがまま” とは、「まったく違ったもの」だからです。
この 凸 を捨てることによって、 凸 の背後から、“何者か” が現れてきます。
というか、凸が消えて、“本来のものが現れる” といった感じです。
これは、今までとは全く違う “別のもの” です。
この “別のもの” は、ここに対して、一切の意味づけを行いません。
“あるがまま” を観ているのです。
この “別のもの” に成ってこそ初めて、“あるがままは姿を現す” のです。