NO.43-6 旧ブログ記事 NO.6(2015.12.22)
「私」=エゴの本体は、「反応するもの」です。
昔読んだ本か何かで、「ごっそりと『私』が抜け落ちるのです」という表現を見たことがありましたが、
まさにそんな感じでした。
「『私』=反応するもの」が居なくなりました。
でもガワは残っています。
これを例えるなら「銀河鉄道999の車掌さん」みたいな感じです。
わたしの中は “空” となっていて、そこに何かに「反応するもの」が無い。
“ただ目の前に世界があるだけ” になりました。
この軽さとクリヤー感は、もの凄いものがあります。
そして、また「反応するもの」が胸の辺りから現れてくると、
明らかに「別の物体」のように感じます。
そして、一気に重たくなります。
それをまた、すーっと戻すようにしていました。
するとまた、空っぽになって軽くなります。
しばらくそれの繰り返しをしていました。
これで、この「反応するもの」が、今まで「私」として活動してきた「本体」だったのが解りました。
この「反応するもの」が無くなったとき、
わたしの中は “空” となっていて “目の前の世界だけ” に成ります。
これは、いつもの視界とは全く違ったものです。
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そこから見た景色はとても綺麗で穏やかです。
歩いている人も、走っている車も、街路樹も、ガードレールも、みんな悟っているように観えます。
どれもこれもが、エネルギーを放っています。
一人立ちしています。
何気に落ちている「石ころ」も、「なんでこんなところにおるんやろ」と思えるくらいに生きていて、悟っています。
そのようにしか見えません。
この世界に悟っていないものなど無いのではないか?と思えるくらいに “躍動感にあふれた世界” が観えています。
そんな風景です。
「誰か一人でも悟れば、みんなが悟る」というのを聞いたことがありましたが、
正しくは、“わたしが悟ればすべてが悟る” だと思います。
お釈迦さまの言った「ああ、ベーサリーは美しい」は
こういうことだったのだと思いました。