NO.232
普段のあなたは「考え事」の方に持っていかれている
あなたは、“あなた” ではなく「『考え事』に成っている」のだ
特に「問題」が起きてしまったときは、より顕著だ
あなたは「その考え事」に引っ張られて
「あっちこっち」に振られてしまっているのだ
だから、“あなたをニュートラルにする” のである
これは、“その問題自体にあなたが成る” ということでもある
問題から逃げようとする「あなた」をそこに留まらせるのだ
すると、この「あなた」は消えてしまう
そこは “問題だけと成る”
と同時に、その問題が消えている
もはや、そこに在るのは “ひとつの世界だけ” である
さて、これを聞いたあなたは、こう言うのかもしれない
「では、荒れ狂う暴風雨の中でも、そこに留まれと言うのか?」と
だが、咄嗟に「暴風雨」から逃げたのなら
そこには「あなた」は居なかった
そこには “行為だけ” が在ったのだ
だがもし「あなたが考えて」
逃げようと 『する』のなら
または、逃げまいと 『する』」のなら
そこには「あなた」が居る
そこに「あなたが居る」のか、“居ないのか” のこの違い
もし、そこに「あなた」が居ないのなら
そこには代わりに、“他の何かが顕れている”
これが親鸞の言う “他力” であり
“阿弥陀の本願” なのである
これにお任せすることが “他力本願” であり
“南無阿弥陀仏” なのである
そして、“ここから起きてくる行為” が
たとえ「悪」に “観える” 行為だったとしても
そこに “本願が在る” なら
その者は「悪人」ではなく
“阿弥陀の本願(愛)” の働きなのである
だが、それが一般人には「悪に見えてしまう場合がある」
だが、この「善と悪」に見分けているのは「人間の価値判断」であり
それは、“阿弥陀の本願” には当てはまらない
さらに言えば、“悪人に見えている本願” も
“他の人に顕れている何がしかの本願” も
“同じひとつのもの” である
だから、“万人が本願に在ること” によって
“ここがひとつの世界に成る” のである
と言うか、“あなたが本願に在りさえすれば”
“あなたの世界はひとつに成る” のである
さて、次に、“歎異抄” で誤解を招いているのが「悪人正機」である
「悪人こそが救われる」というものである
まず、ここで親鸞が言う「善人」とは
「自らで何とかしよう」と「『自力』を使う人」のことであり
これがいけないと言うのである
なぜなら、自分でやろうとして “阿弥陀の本願” に任せていないからである
また「悪人」とは
「自力ではどうしようもない煩悩まみれの人」のことであり
まだこちらの方が “他力(阿弥陀の本願)” を掴みやすいということである
なぜなら、“南無阿弥陀仏” と念仏を唱えることで
これは “阿弥陀様に全てをお任せします” ということであるが
「悪人」は、「煩悩(思考)まみれの頭の中」から一時的に離れて
“阿弥陀の本願” にピントを合わせるように試みるからである
このとき、一時的にも “ニュートラルに成り”
上手くいけばそこへ “他力(阿弥陀の本願)が顕れる可能性が出来る” のである
このようなことから親鸞は
まだ「悪人」の方がましだと言っているのである
これが親鸞聖人の「悪人正機」である
だが、ここで大事なことは
“念仏” を、自らの「行」まで落としてはいけないということである
「『行』をやる」と言うのは
そこにはまだ「自力で往生しよう、とやっている者」が居るからだ
つまり、そこに「あなた」が居てはいけないのである
この「あなた」という “「自力」がはたらいていないとき” にのみ
“念仏” は「あなたの計らい」を超えてくるのである
さて、荒れ狂う台風の中心は、いつも “空” である
回っているコマの中心は、“空” なのだ
これが “真理” である
だから、どんなときでも “中心(ニュートラル)” に在りなさい
そこに在るのが、“本願” であり
ここでのみ、あなたが解放されるのだ