「あなた」で何もしないとき未知がひらく

植村直己と、南極の不思議

NO.561

シュタイナーは、地球は球体ではなく「正四面体」だと言った

そして、その頂点の位置に当たるのが「日本だ」と言っていた

あとの底辺の3つの角は、「南極、中央アメリカ、コーカサス」

それらが「丸く膨らんだ形になっている」と言った

もし、このことが正解だとすれば

「南極」も、特別な位置になっているのだろう

そして、もう一つ不思議な話がある

昔、アメリカ軍が初めて「南極」に行ったときの話である

このとき、アメリカ軍はなぜか戦闘機17機を用いて行ったのである

はて?、アメリカ軍は一体「何を」偵察するつもりだったのだろうか?

このことを考えてみると

「南極」が、「地球内部のシャンバラへの入り口」

もしくは「異次元へのポータルに成っているのではないか?」という説も

あながち嘘ではないような可能性も出てくるのである

事実そのような噂があるは確かである

ここで、少し話を脱線させてみよう

  

かの有名な冒険家である植村直己氏は、「世界初となる、五大陸の最高峰を登頂した」後、地球の「南・北の極点」の方にチャレンジの矛先を向けていく
つまり、垂直方向の頂点から、水平方向の頂点を目指し始めるのである

そこでまず、植村は「南極」へ向かおうとする

ここには、「アメリカの軍の基地」と「アルゼンチン軍の基地」の二つがあり、植村の計画では、スタートはアメリカ軍の基地から、そしてゴールはアルゼンチン軍の基地までという計画を立てており、そのために、この二つの基地にサポートしてもらうことを考えていた

だが、「犬ぞりも使えないのにどうするつもりだ」というその一言で、植村は南極とは全く逆である北極圏のグリーンランドの北端にあるエスキモーの村、シオラパルクに犬ぞりを学びに行くのである

そう、植村は、エスキモーにエスキモー直伝の犬ぞりを学びに行ったのである

このときに船から降りた植村は、現地の言葉が話せないので、まずは「縄跳び」をそこで飛んで見せた
すると、たちまち子供たちが笑顔で集まってきて賑やかになったそうである
植村の「つかみはOK」だったのだ
このとき一番驚いたことは、現地の人の顔と風貌とが日本人とそっくりだったことである

その後、彼は現地の人(イヌイット=エスキモー)の懐に飛び込んでは親切にし、また生活への協力も惜しまず、それゆえ現地の人からはとても信頼され、また彼自身の持って生まれたチャーミングな人間性とも相まって、とても可愛がられていたのである
村長だったイヌートソア夫妻からも「私達の息子になってくれ」と頼まれるくらいで、ついには養子縁組までしているのである

犬ぞりを教えてもらっていたときも、初めのうちは鞭を振るう度に何度やってもその鞭が自分の顔へ返ってきては痛い思いをし、それがかえって現地の人の爆笑を誘うことになって良かったみたいだが、さらに練習をし続け、やがて「狩りや移動手段」としてしか犬ぞりを使わないエスキモーの人たちから、「直己は死にに行くのか?」と言われながらも、3000kmの距離を単独で走破し、さらには北極圏においては12000kmの距離を犬ぞりを用いて単独で走破していくほどになるのである

そして、植村はいよいよ「北極点」を目指すことになる

その「北極点への冒険」では、スタート早々、テトラポットのように積み重なった氷の山を、橇(そり)から降りて、ひたすら鉄の棒で砕きながら犬ぞりを通していき、また止まっては同じことを繰り返していくという、ほんの僅かづつしか橇を進められない中、またそのスタートから4日後の早朝には、テント内で寝ていたところに急に重厚な鼻息が近づいて来たかと思えば、それは白熊であり、そのままテントの上から踏ん付けられて死ぬ恐怖まで味わい、また北極の下は海だから、氷が割れて犬ぞりが海中へ落ちないかの心配をしながらも、56日をかけて約800kmを走破し、とうとう単独で犬ぞりを用いて、1978年4月29日「北極点」へ到達するのである

このとき、同じく北極点を目指していた「日本大学北極点遠征隊(10人)」に、植村は惜しくも4日遅れとなってしまい、残念ながら日本発とはならなかったが、植村は「単独では世界初」で到達しているのである

ここで余談になるが、植村は「北極圏12000kmのとき」に氷を割ってしまい橇を海中に落としている
だが、その橇と、橇に括り付けていた荷物とが幸いにも浮いてきた

また、ちょっとした隙に11匹全ての犬に逃げられてしまい、極寒で太陽が昇らない暗闇の中を、橇を置いたまま一番近くのウパナビック村まで60km以上の距離を歩かなければならなくなるという死の危険を感じる中、幸いにもリーダー犬の雌犬「アンナ」が5匹の犬を引き連れて戻ってきてくれて救われるのである

この雌犬の「アンナ」を含む4匹を、植村は日本に連れ帰っており、アンナは旭山動物園で子を産み約16歳まで生き、今は「おびひろ動物園」で、はく製になって展示されている

さらに余談になるが、植村が日本初となるエベレスト登頂を果たしたとき、先輩の松浦輝夫氏と二人で登頂したのだが、その前日の夜に同じテント内で寝ていたのにもかかわらず、植村は自慰行為をしているのである
そして朝になり、先に歩いていた植村は直前になって「先輩、お先にどうぞ」と1番を譲ったのだが、松浦氏も「いやいや一緒に行こう」とお互いが譲り合って二人で山頂に立ったのである

  

さて、北極点到達したときの話に戻るが
この時点で、地球でのメジャーな残りの「極点」はあと一つだけとなった
そう、「南極」である
アメリカ軍が17機の戦闘機を用いて行った、あの南極だ

植村は北極圏での犬ぞりの実績を携えて、ついに南極に戻ってくるのである

この南極では、単独での「南極点の到達」、「南極大陸の横断」、南極大陸最高峰の「ビンソンマシフの登頂」という、「3つの初」に挑戦する計画を立てていた

その下準備として、南極大陸横断とほぼ同じ距離の3000kmを体験するため、北海道の宗谷岬から、(西鹿児島駅)今の鹿児島中央駅までの約3000kmを、52日間かけて歩いているのである
このときに、3足の靴を穴があくまで履き潰したそうである

このように植村直己は、どんなときでも入念な準備と訓練を怠らなかった、決して無謀とは言えない冒険家だったのである

ここで、「単独」ということについて考えてみると
「単独」といっても食料などの確保がいるから
「補給をしてもらった時点」で、それはもう「単独ではない」という人がいるのも確かである

事実、植村は、北極点へ向かうとき、飛行機で4回も補給してもらっている
それも、食料だけでなく、テントも犬も犬ぞりも補給してもらっているのである

  

さて、植村は、先ほど言った南極大陸での計画に、南極大陸に存在している2つの基地、アメリカ軍とアルゼンチン軍の基地にサポートを依頼していた

だが、アメリカ軍からは当初からサポートを拒否されていた

だが、植村はアルゼンチン軍からのサポートを取り付けていたのである
そこから約一年間、植村はアルゼンチン基地から偵察などをさせてもらい、アルゼンチン軍のサポートだけで目的が達成出来るように予定を組み直していったのである

そして、一旦帰国し、1982年2月13日、植村は再び準備万端で南極大陸のアルゼンチン基地に到着し、出発に向けて、まだか、まだか?と待機していたのである

ところが、3月19日、なぜだか、今更ながらのアルゼンチンの先っぽ辺りにある、小さな島の取り合いである「フォークランド紛争(アルゼンチンとイギリスとの領有権争い)」が急に勃発し、植村の計画は頓挫するのである

だが、74日間でその紛争が治まった後にも、まだアルゼンチン軍は協力する姿勢を見せていた
だが、その後、急にその話は一転し「援助の話は無理になった」と、アルゼンチン軍からの申し入れがあり、突如、植村の南極点行きは不可能となってしまったのである

もう一方の基地であるアメリカ軍からは、サポートを拒否されたままである

念願の「南極点行き」を断念し、意気消沈して戻ってきた植村は、それでも諦めきれずいろんな活動をしていたとみられる

そんな折、アメリカの多国籍企業である「デュポン社の方からの打診を受けて」、「デュポン社の装備」を使用して厳冬期のマッキンリー登攀に出発するのである

今まで入念な下準備と訓練を怠らず、自らが装着する装備には「実践から得た信用のおけるものしか着けることがなかった」あの植村直己が、そのデュポン社の「新しいケミカル素材の服とエアーブーツをはいて」厳冬期のマッキンリーに出て行ったのである

後に、この装備が問題となるのだ

植村は、ずっと羽毛服を愛用していたし、北極圏ではエスキモーと同じく白熊のズボンをはいていた

このことから考えると、自らが積極的にその企業のケミカル製品を使うことで、また新製品などのモニター役を買って出ることで何かの役に立とうとしたのかもしれないということである

つまり、その装備を使って「世界初、厳冬期のマッキンリー登頂成功」という「おみやげ」を植村は狙っていたのかもしれないということである
これは企業にとっては、計り知れない利をもたらすことになるだろう

つまり、これは植村直己からの、南極大陸横断へ向けてのアメリカ、そしてアメリカ軍へのアピールだったのである
多国籍企業と軍部には深い関係がある

事実、「マッキンリーが上手くいけば、もう一度南極にチャレンジする。今度はアメリカの企業がスポンサーになって全面的に協力してくれることになっているんですよ」とテレビ朝日のスタッフに話しているのである

  

そうして植村直己は、1984年2月1日、ついにベースキャンプから、妻の公子さんから送ってもらった「二本の竹竿」を腰に着けて(クレバス=氷の裂け目 に落ちても止まるようにするため)、荷物を載せた橇を引っ張りながら山頂へと出発するのである

だが、この初日の時点で、すでにその衣類が凍り付いていた
この日、日が暮れてきたので植村は1時間ほどかかって雪洞を掘り、そのせいで汗がビショビショになっていたのである
汗が抜けなかったということである

4200m辺りの雪洞の中に残された日記には、こう記されていた

雪洞に入り、着ているものを脱いだが凍ってゴアテックスのヤッケ上下の裏側が白く氷がふちゃく、バリバリである。パイルのジャンパーも袖から肩、背中にかけて霜がふき、パイルのズボンの表面も雪をまぶした様に雪氷がくっついて、不快である。雪洞の中でただ手袋をはめた手で雪氷をはらいのけるより方法なし。雪洞はテントと異なり、部屋の中を温めることは不可能。雪洞の中で羽毛のズボンをはき、シンサレートの上下を着る 

 (ゴアテックスなら汗は抜けるはずである)

  

マッキンリーの標高は、6190mである

ここからが時系列である

2月1日、2250mに雪洞をつくる
ここが、上記に書いた、衣類が凍り付いていた、C1(キャンプ1)の雪洞

2月2日、9時出発、2650m地点に到着で、C2(キャンプ2)の雪洞

2月3日、9時30分出発、3600m地点に到着、ウィンディコーナー手前、ここがC3の雪洞 
ここで雪洞を掘るのに3時間もかかっている

2月4日、吹雪のため1日停滞する
気温マイナス23℃ 「今日の停滞は休養になり、よいのかもしれない」と日記に書いている

2月5日、9時30分に出発、風速25m~30m。気温マイナス28℃。
ウィンディ・コーナーを進む、C4の雪洞着

ここで歩き始めて5分もしない内にエアブーツからアイゼンが外れる
これを締め直すのが大変だ
手袋が分厚いため紐が結べず、上の手袋を外すと途端に手がかじかんで感覚がなくなる
何とか30分もかけて着け終えて歩き始めると、今度は反対の足のアイゼンが外れた

このエアーブーツからアイゼンが外れた話はあまり表には出てきていない
この他にもまだまだ、表に出てきていないものがあるはずである

そして、この日のその後である
日が暮れてきたので3時頃、吹雪の中で雪洞を掘るが、一旦、その手前50mの所に置いていたザックを取りに戻る。風に吹き飛ばされそうになり、四つ這いになって歩く。暗いため、掘った雪洞が見あたらない。「俺はこれで死ぬかもしれない」という1行が日記にある。ようやく見つけた雪洞にとび込んで助かる。

このときの植村の日記

四つん這いになって右へ左へ探しまわる。俺はこれで死ぬのかもしれない。掘っていた穴にたどりつかないとあせり気味。更に風の強いウエスト・バットレス。突き当りのほうに進んでみると、すぐ目の前に、掘り出したブロックの凸き(突起)があり、やっと辿り着いて、ザックのまま穴の中に飛び込む。これで助かった。

この後に「クレバスに落ちる」とも書いていたらしい

このあと雪洞の中で、自分を鼓舞するかのように「青い山脈」を大声で歌うのである
この歌は植村の愛唱歌だったそうである
ここが、C4

  

2月6日、11時出発、14時着、4200m地点 C5の雪洞着

ここから「植村直己記念館」という写真集に載っている、植村直筆の日記の写真より引用する
この写真集に載っている日記はこれだけである

2/6   ―40 ―39℃ くもり、一時晴れ

 ウィンテーコーナー  → ウエストバットレス下部
11:00出発        14:00着

やっとウエストバットレスの下部に進んだ
今日はのんびりとと思ったが ウエストバットレスの下で
雪洞を掘っていると、何んと完成したのが6時過ぎ、
雪洞を掘るのは重労働、ウエストバットレスの登り口
の斜面に掘ったが堅雪のため なかなかシャベルが
入らない。やっとまわりをブロックでふさいだかと思った
ら、最後のブロックを置いたところが どさっと崩れて
しまったり。 なお(←この2文字を横線で消している)

天候は今日も風強し 昨日程でなかったので今日は
決行した 昨日、今日の風で右ほうが凍傷でやられて
皮がむくれる 両手の中指の第一関節から先が感覚
なし、

夏はここから2日で頂上へ行ける 冬は果して何日か
かるか 食料はまだ6日分はある
カリブーの凍肉を今日もかじった
雪洞の中でも-21℃もあり、落ち着けない、
シラフは凍ってバリバリ、
明日は晴れてくれるか
このところ、天候はずっと悪天続き そろそろ晴れて
もよいのに 天候は私に非常なり
ガソリンコンロも炊きたいが、お茶を飲む以外炊かず
温いシラフで寝てみたい、
ローソクが残す5cm弱になってしまった。夜が長いため
ローソクを意外とよくつかうのである
  (次のページ)
ヘッドランプはアタック用につかいたいから、少し節約

何が何んでもマッキンレーー登るぞ、

ここが、4200m地点でC5、日記と写真などが残されていた雪洞である

この2月6日以降は、日記がない
植村は、後で本を書くことで次の冒険の資金にするために日記を頻繁に付けていたのだが、、、
この日記を、その雪洞に置いたまま、植村はさらに上を目指すのである

このあと、4900m付近に次の雪洞を作っている

2月7日と、8日の行動は不明

9日快晴、ようやくセスナのパイロット、ダグ氏が植村直己の姿を確認した

が、10日はまた不明

このあたりで、植村は5200m地点に「山頂へのアタック基地(最終キャンプ)」となる雪洞を作っている

  

ここで、時間軸が前後して「登頂した後」のことになるが、植村は下山時にこの「最終キャンプ」に戻って来ていない

後に植村の後輩にあたる、第一次明治大学山岳部OB会の捜索隊がここまで登ってきたとき、ここで植村の装備を多数発見しているからである
シュラフ、ヤッケ、ズボン、手袋、靴下などの衣類
カリブー(トナカイ)の肉などの食糧
コンパス、温度計、カラビナ、アイスハーケンなどの登山用具
アルミ食器、鍋、カメラのフィルムなどの、合計35点
その総重量は約15kg
その装備はまぎれもなく植村のものであり、吹き込んだ雪がその上に積もっていた

ここにこれだけの装備が残されているということは、ここが軽装備で「頂上にアタックするための最終キャンプ」であり、下山時には必ずここに戻ってきて食糧や装備を積んで下りるための雪洞だったのである

なのに、食糧や装備がそのまま残されていることから、植村が下山時にこの雪洞まで辿り着いていないことが確実となったのである

さらに、ここは5200mの稜線上(頂上から連なる尾根)に作ってあるため、非常に分かり易く、明治大学山岳部OB隊は、「植村がアタック基地の雪洞を素通りして下山することはあり得ない」としており、植村がこの5200mより上の地点で遭難した可能性を指摘しているのである

だが、2月16日にパイロットのダグ氏が、そこより下の4900mの雪洞で手を振る植村を目撃したと語っている

もし、ダグ氏が「手を振っている植村を見た」ということが正しければ、4900m付近の雪洞で手を振っていた植村は、「5200mのアタックキャンプ」を何らかのハプニングにより通り過ぎてしまい、4900m付近まで下りてきてその雪洞で手を振っていたということになる

すると、そこからもう一度、5200m地点の雪洞に登って、置いてきた装備を取り戻しに行こうと考えていたのかもしれない

だとすると、植村が遭難したのは、この16日以降ということになるのだが、、、
だが、このパイロットのダグ氏の証言が、後に覆えってくるのである

そもそも、今回の登山のときの植村とパイロットとの取り決め事として、「手を振れば元気な証拠」、「手を振らなければ救助を要請する」という事になっていたから、この証言を聞いたときに関係者たちは植村の生存を確認し、さらには手を振っていたことで安堵していたのである

だが、このパイロットの証言が、「何度も旋回して雪洞から手を振っている人物を確認した」から、「4900m付近で小さなグレーの点が手を振っているように見えた」に変わったのである
また、「何度も旋回して確認した」、から「そのとき一回だけ」に変わっているのである

もし、16日の、このダグ氏の「植村が手を振っていた」の証言が無かったならば、もっと早い段階で植村の遭難の可能性を探っていたかもしれない

これらのことを踏まえて、植村直己が「いつ、どの辺りで眠っているのか」を、筆者の推測で後ろの方に書くことにする

  

さて、また登頂前に戻るが
その、2月11日

植村を、5200m付近で確認したセスナ機のカメラマンの助手が、植村と無線で連絡を取り合っている
植村は元気そうな声で

植村 「えー、私のいるところは1万7200フィート(約5244m)です」
   「そのずっと下です、ずっと下です、どうぞ」

セスナ機 「えー分かりました、只今より、ずっと下に下がります、どうぞ」

 ここでセスナ機が、稜線上にいる赤い服を着た植村を発見する
 (このときの姿は、はっきりと見える)

「植村さん現在、登頂中ですか、それとも登頂に成功して降りてくる途中ですか?、どうぞ」

「えー、これからです、これからです」
「えー、天気が悪くて全然動けません」

  

そして、次の日の、2月12日、午後2時

デナリパスを過ぎ、頂上までの中間の稜線上いるところをセスナのトーマス機に再び発見される

植村 「えー感度良好です、感度良好です、どうぞ」

トーマス機 「こちらも感度良好です、えー現在地点を教えてください、どうぞ」

「えー、デナリパスから約100m以上登った所にいます」
「えー、標高100m以上、今頂上に向けて稜線上にいます、どうぞ」

「はい、了解しました、えー植村さんを発見しました、ただ今、植村さんを発見しました」
「えー、今の時点から植村さんの予想では、頂上まで約何時間くらいかかりますでしょうか?、どうぞ」

  (植村が何か言っている風だが「ザーーー」という雑音ばかりで聞き取れない)

「えー、よく聞き取れません、よく聞き取れません、もう一度、お願いします、どうぞ」

「えー、今から2時間位はかかると思います、2時間はかかると思います、どうぞ」

「はい、了解しました」

  この辺りが、5600m地点である

  

このあと、植村直己は1984年2月12日 午後6時50分頃、「世界初の厳冬期のマッキンリー単独登頂」に成功するのである
この日は、植村直己の43歳の誕生日である

そして、午後10時頃に下山を開始するのだが、ここで「オカシナこと」が起きているのである

この登頂時刻と、下山開始時刻の時間をみて欲しい、植村は頂上で3時間以上も滞留しているのである
この下山を開始するまでの「空白の3時間」が謎なのである
ましてや寒風吹きすさぶ、夜のマッキンリーの頂上である

ここで考えられることは、植村は五大陸の最高峰の山々で、それぞれの石を持ち帰っており、それを砕いたものを土に混ぜて陶器の「ぐい呑み」にし、それを結婚式の引き出物に出していることである
だが、このときの植村は既に結婚をしていて、新たに石を持って帰る必要はなかったはずである

  

そして、その翌日の、2月13日午前11時、劇的な交信が交わされるのである

「植村さん、感度ありましたら応答願います。どうぞ」

「えーかすかに感度あります。どうぞ」
「7時10分前にサウスピークの頂上に立ちました、どうぞ」

「まだよく分かりません、ただ今登頂中ですか? 今日は強風のため断念したのですか?教えて下さい、どうぞ」

「えー、7時10分前にサウスピークの頂上に立ちました、どうぞ」

「おめでとうございます、おめでとうございます」
「えー、何時に頂上に着いたんですか? 時間とそのときの状況を教えて下さい、どうぞ」

「えー、昨日の夜の7時10分前にサウスピークの頂上に着きまして、」
「えー、昨日の夜10時頃に下り始めましたんですが、えー、ルートがよく分かりませんでビバークいたしました」

 (ここで他の無線と混線し始める)

「現在位置を教えてください、どうぞ」

「えー、私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして、標高・・・2万、2万フィート(約6000m)、えー、・・・」

パイロットのトーマスが旋回しながら植村の姿を探したが、姿は見つけられなかった

この交信で「カヒルトナ氷河(ベースキャンプ)で、15日にピックアップして欲しい」という植村の声をかろうじて聞き取った

ここからは英語でのトーマスの言葉

「直己、直己、君を探しているけど異常はないだろうね?君が上手くいってくれて嬉しいよ」
「昨夜の登頂成功、本当におめでとう」
「上では大変だったろう。君が無事でいて欲しい」
「後でまた来て君を探すからな」
「ベースキャンプでたくさんのご馳走、お茶、ココアを用意して待っている」
「気をつけろよ。すぐにまた会おう。マッキンリーの冬季単独登頂おめでとう」
「本当にドデカイ事をやったな。世界の山屋が目をむくぜ。じゃあな、バイバイ、直己」

このように祝福して、トーマスはその場を引き上げた

そして、15日、植村の指示通り、カルヒトナ氷河のベースキャンプへとエアタクシーが飛んだが、植村は下りて来なかった

その次の日の16日の朝、先に述べたとおり、パイロットのダグ氏が4900mの雪洞で手を振る植村を発見したと証言するのである

パイロットは、「植村は雪洞から上半身を乗り出して手を振っていた」と証言している
パイロットと植村は事前に打ち合わせをしており
「手を振るのは元気な証拠」
「動かないときは救助を要する」となっていた

また、パイロットは、「その雪洞付近を何回も旋回して植村を確認した」とも証言している
このパイロットの証言が先に書いたとおり、後に覆えっているのである

その次の日の17日から3日間は、さらに天候が悪化したためヘリによる操作も困難を極めた

やっと、4360mの盆地で、デポ(荷物を保管している所)で植村のスノーシューズを
2650mで腰に着けていた竹竿を発見した
  (だが、これは登って行くときに置いていったものではないだろうか?)

その後、吹きすさぶ強風と渦巻く吹雪のためにヘリはそれ以上高い所を捜索することが出来なかった

20日、ようやく天候が回復した
植村が下山するのなら、このときしかない

セスナは、日が明るくなると同時に、ベースキャンプから山頂までの間をくまなく探したが、植村の姿を発見することは出来なかった

その後、植村直己は完全に消息を絶ってしまった・・・
厳密に言うと、「2月13日の午前11時の無線の交信が終わった後」である

それから、明治大学山岳部OB隊などの数回にわたる徹底的な捜索にもかかわらず、未だに発見されていないのである

ここで、もう一度振り返ってみるが
南極には、どうしても「知られてはいけないものがある」という『何かの力』が働いていなかっただろうか・・・ということである
4200m付近の雪洞の中に置かれていた日記には
「服に水が染みてきて、寒い、寒い、寒すぎる」という記録も書かれていた

ある登山家は冬のマッキンリーのことを「恐怖のマッキンリー」と呼んでいた
冬のマッキンリーは、北極圏からの強烈な寒気と強風が流れ込んでくるからである

  

さて、ここからが筆者の推測となるが

アルゼンチンに住む高山良比古という人が、「オランダの有名な透視術者」にマッキンリーの地図を送って、植村直己が何処にいるのか透視して欲しいと依頼したそうである

このオランダ人は、ウルグアイのラグビーチームの乗った飛行機がアンデス山脈に墜落したとき、何処に墜落したのかを透視して当てた人で、海外では非常に有名な人だそうである

この人が透視したところによると、「植村の場合はマッキンリーの尾根の東側の斜面の岩陰にこういう状態でいるから、飛行機は右旋回でなければ見つけられない」というように具体的な場所を示したのだが、このことが捜査に活用されることはなかった

どうしてだろうか?

筆者にはこの透視術者の言っていることが、非常に合っているのではないかと思えるのである

なぜなら、2月13日に登頂した次の日の午前11時、植村がセスナ機との交信の時に言った、「えー、私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして(回り込んで)、標高・・・2万、2万フィート(6000m)、えー、・・・」、と無線で伝えてきた、サウスピーク(頂上)から回りこんだそのままの位置で、つまり、まだ標高6000m辺りのままで、何らかのトラブルが起きていたとすれば、上記のオランダ人透視術者が言っていたことと合ってくるからである

つまり、明治大学山岳部OB隊が指摘した、「植村が見つけやすい5200m地点の最終キャンプを素通りすることは考えられない」ことや、また、ダグ氏が、「2月16日に植村が手を振っている姿を見た」の証言が覆えっていることから、これを誤認と考えてみると

やはり、植村は、山頂から5200mの雪洞までは下りてきておらず
つまり、2月13日の午前11時に、「えー、昨日の夜10時頃に下り始めましたんですが、ルートがよく分かりませんでビバークいたしました」
「えー、私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして、標高・・・2万、2万フィート(約6000m)、えー、・・・」、と交信したすぐ後、このときに居た『山頂から回り込んだ6000m地点でビバークしたままの位置』か、もしくはその少し下辺りまで下りていて『強風を避けようとして岩陰に隠れるよう』にしたまま眠っているのではないだろうか?

もしくは、そこから猛烈な突風によって体が吹き飛ばされたか、何らかの事故が起きて滑落してしまった場所、その辺りに眠っているのではないだろうか?

つまり、植村直己は、2月13日の午後7時10分前に登頂した後、その前からかもしれないが、何らかのトラブルが起きていて、頂上で3時間以上もかかってしまい、その後、下りようとしたが下りられなかったため、ずっとトラバース(横歩き)しか出来ずに、仕方なく6000m付近でビバークして朝を迎えたが、それでも下りられなかったので「そこに居たままか、もしくはそのやや下辺りで下りられずに居た」のではないだろうか?

この状態のまま、11時頃にセスナ機の無線と交信したのが「あのやりとり」で、そのときの位置のままで、その後事故が起きたのではないかと思われる

 

さて、植村直己の凄さは「心が折れないこと」である
もう無理だろうと思うところからでも、どうにかしてやってのける「別格のマインドと体力の強さ」がある

北極圏にいたときも、マイナス40℃まではまだ厳しいながらも堪えれたが、さすがにマイナス50℃は限界を感じたみたいなことを言っていた
そんな世界を体験していた植村直己だったのだ

だから、どうしても装備を疑ってしまうのだ

だが、念願の「南極での冒険」へのバックアップをしてもらうためには「装備での不具合が多すぎた、または起きた」とは無線でも言えなかったのではないか?
また、無線が所々混線していたことをみると、他の何かとも連絡を取り合っていたのかもしれない

それに、日記の件も疑問が残る
今回ばかりは、途中からかなり遭難の危険を感じていたのかもしれない
だから、万が一のことを考えて、ここまでの記録を残そうとして4200mの雪洞に日記をわざと置いて行ったのかもしれない
結果的に今回はそうなってしまった

この辺りのことは全て筆者の推測にすぎないが

さて、このときの植村直己が、冬季マッキンリー単独登頂を果たしたことへの確認は、
春になった5月14日に、明治大学山岳部OB隊がマッキンリーの頂上へ登ったときに、そこに植村が立てた「日の丸の旗」が立っていたことで証明されるのである

この旗は妻の公子さんが日本から現地へ送ったものである

  

植村は、歳をとり段々と体力が落ちてきて、冒険が出来なくなったときのことを考えていた
普通のサラリーマンになることが出来なくて、そこから逃げるかのように冒険ばかりに出かけていたけれど
そろそろ、その後の生計を立てていくことを考えていかなければならないと思っていた
その思いから、植村は犬たちを引き取ってくれた北海道の「おびひろ動物園」とのご縁もあり、帯広辺りでの「青少年の冒険学校」の設立を考えていたのである
彼は、青少年の非行問題に関心があり、その当時問題になっていた「戸塚ヨットスクールのスパルタ教育」に対しても、内々の話として「あの戸塚氏のやり方は問題だが、こういう類の教育は必要だ」とも言っていた

植村には冒険の経験はあるけど、それを人にどう教えていけばいいのかが分からない
だから、ミネソタの学校に学びに行くのである
ここには「屋外活動を通じて人間の教育に貢献する」という方針の、アウトドア活動の短期スクールがあって、そこを紹介されていたからである
さらに、ここには犬ぞりの教科もあったから、植村にはうってつけだったのである

そして、植村はこのミネソタへ学びに行った帰りに、厳冬期のマッキンリーに登ったのである
妻の公子さんには、もう山は登らないと言っていたから、こっそりと風にして、、、

きっと、このマッキンリーをきっかけにして、南極を再度狙うために・・・という約束だったのだろう
だとしたら、このときのスポンサー的(デュポン社)なことを公子さんには言っていたかもしれない

この前の8月にも、植村はアルゼンチンに行っている
「アルゼンチン陸軍の山岳部隊の基地」に行ったのである
南極で一緒に過ごした親しかった少尉が、今はここで指揮をとっていたからである
このように、どうしても植村の発想は南極がらみになっていたのである

  

植村直己は、7人兄弟の末っ子である
その長女や次女らが話したところによると、植村はこのときのミネソタへの出発前も、いつも通り二人の元に電話をしてきたそうである
しかし、いつもは大概報告程度で終わるので2、3分で切れるのに、今回だけは「父のことや家族のことをよろしく頼む」というようなことを30分以上も話したそうである
このとき、二人とも「何かいつもの直己とは違うな」と気になったそうである
これが姉たちが、弟、直己の声を聞いた最後となった

植村には今までにない不安があったのかもしれない

妻の公子さんは言う

「家を出る前の2月19日と20日の両日の体験を私は生涯忘れることがないと思います。
その日までは、植村はこれまで何度かあったように遭難と騒がれても必ず出てくる、と多くの人がおっしゃって下さったように、私もそう信じていました。
必ず照れくさそうな笑顔を見せて現れてくる、と思っていました。
けれど、あれは19日の朝でした。
なにか周囲の空気がいつもと違うのです。海の底にでもいるようなシーンと静まりかえって、重く透明な空気が私の周りに沈んでいるのです。
それは今まで経験したことのないものでした。
次の日もそうでした。
それで私は、ああ、これはあの人に何か起こったのだな、と思いました。

植村直己は、とてもチャーミングで力強い冒険家であった