「あなた」が何もしないとき未知がひらく

“観ている体験” だけが在る

NO.330-78   旧ブログ記事 NO.78(2015.7.5)

「私の身体」を存在させているもの。

「椅子の形」を存在させているもの。

椅子に向かって「こんにちは」と言った「私の声」を存在させたもの。

見えないけれど、それがなかったら何も存在できない “大元”。

椅子は椅子ではなかったのです。
“大元” だったのです。

私が、椅子を見ている。
椅子が、私を見ている。

このとき、私が消えて「これが椅子だ」という意味づけすらも無くなったら、

そこは、“観ている体験” だけになります。