NO.65-28 旧ブログ記事 NO.28(2016.7.5)
机の上に「一本の鉛筆」を立ててみます。
それを、私に例えてみます。
その鉛筆(私)で、全てが起こっています。
鉛筆が、鉛筆でやっています。
鉛筆の外には何もありません。
これに気付くと、笑うしかありません。
一気に脱力して、ドッヒャーと笑ってしまいます。
しかし、“鉛筆” に居て、ふと外に引っ張られるときがあります。
すると「嫌な気持ち」になります。
この「嫌な気持ち」は、二次的なものだというのが解かります。
“鉛筆の中心” には、リラックスしかないからです。
“鉛筆” から離れたときにだけ、「嫌な気持ち」が起こってくるのが解かります。
だから “ここ” から離れないで、ずっと中心(鉛筆)に居るようにします。
すると、「世界」は、私から放射されているようになります。
というか、鉛筆が鉛筆でやっているだけなのですが。
あ~なんというリラックスでしょう。
「この世界」は、見事な「自作自演劇」だったのです。
さて、ここからです。
本当に、そこに「鉛筆=私」が有ったのでしょうか?
これが「無かったこと」に気が付いたとき、
初めて、“それ” の存在に気が付くでしょう。
そして、“それ” を「翻訳している」のが私だったことも知るでしょう。
ならば「翻訳上手」になるべきです。