NO.471
普段「納得のいかないこと」が起きたりする
これは「社会意識の範囲内」で「納得がいかないこと」である
だから「あ~とか う~とか」言いながらも
なんとなく、それは過ぎ去って収まっていく
だが「社会意識」を逸脱した「ありえないこと」が起きたりする
たとえば「みんなで決めた物事」を平気で破る人が出てきたりする
その人は、そのことを隠そうともせず「そうする」のである
え~なんであの人は、みんなで決めた「禁止事」を勝手に行うの?
みんなクエスチョンだ
だが、その人は悪びれることもなく
平然とそれを行っている
あなたは、その人が「それ」を行おうとしていたところに偶然居合わせてしまったから
それは「禁止事項になってますよ」と注意をする
だが「ここまでの範囲しかやらないから」
と言う謎の返事が返ってきた
??
いやいや、これはみんなの共有物だから
「あなた個人の判断で勝手にいじってはいけないことになってますよ」
とあなたは、さらに言い伝える
だが「ある程度の整えたりする範囲ならいいと許可をもらっている」と
嘘っぽい返事が返ってくる
あなたは「それは整える範囲だとは言わないよ」と内心思っているが
それ以上のことは言わずに、その場からすっと身を引いた
すると、しばらくすると、そこにあるべきものが無いのである
やはり、その人は「意図して『整える範囲』を大幅に逸脱していた」のである
あなたには解らない
そして、すぐに回覧板が回ってきた
そこには「こういうことはやってはいけません」という
その人を直撃するかの如くの禁止事項がやや強い口調で書かれていた
そりゃそうだ
普通なら考えられないことである
勝手に共有物を破壊しているのである
だが、その人から見るとそれは破壊ではなく
邪魔な部分は消去した
ということなのだろう
さて、ここで問題だ
なぜ、その人はこのようなことをやったのだろうか?
自分では悪いことをしているとは全く思っていないのである
むしろ「みんなの為に邪魔な部分を取り除いている」と勝手に思い込んでいるのである
だが、普段からその人の所作には何かと「不満が表れていた」
だから、それをやりながら過剰にやってしまっている感がそこに観えるのだ
そう、この人は「社会意識」からも、さらに逸脱して
「反作用の世界」に入っているのだ
「反作用の世界」というのは
「社会意識の思考」からも外れた「反作用の思考」の世界である
つまり「世界の反作用」をやらされているのである
これは、その人が「無意識でいるため」にそう成っているのだ
言い方を変えるなら
その人は「世界の要請をやらされている」のである
もちろん、その人本人は何も判っていない
自分が逸脱していることも、みんなに迷惑をかけていることすらも判っていない
だから、全然悪びれるそぶりもない
だが、ここで考えてみて欲しい
これは「反作用」だから、必ずその前に「何かやったこと」があるのである
それは「あなたの不平不満」かもしれないし
「あなたが昔に何かやってしまったこと」なのかもしれない
はたまた「他の誰かさんの不平不満」かもしれないし
「誰かさんがやってしまったこと」なのかもしれない
それらの「反作用」が、そこに「その人の思考と成って」
「そこに起きている」のである
つまり、そこに「世界の要請」が起こっているのだ
よ~く思い出してみるのだ
あなたは「恐怖から何かを過剰にやってしまったこと」はなかっただろうか?
そのとき「それ」は破壊だとは思っていなかった
それと同じことが、今、そこに形を変えて起こっているのではないだろうか?
そう、あなたには昔「それ」があった
しかも「そのときのこと」を未だに思い出すことがあり
そのことを「後悔することがあった」のだ
それは、当時あなたが「恐怖から起こしたこと」だった
さて、もう一度確認するが
今回のことは、あなたが一度「止めさせようとして、ちゃんと伝えた」のにそう成ったのである
これは「止まらなかった」ということである
「止まらなかった」と言うことは、そういうことなのだ
そこに “必然が起こっている” のである
あなたが昔に起こした「作用」に対する、「反作用」
だが、もし「そのこと」が、あなたにとって「引っかかっていなかった」としたら
そこには “何も起きてなかった” のである
あなたが「引っかかっていたこと」
これが、今回、そこに現れてきたのである
さあ、これで、そこが幾分クリアに成った
だから、ここからはもう「反発」をしないことである
ここで終わらせるのだ
終わらせると言うのは
“気にならなくなる” ということである
そのためには、“それがそこに起こった”
これでおしまい
この “一元の世界”
“それ” しか無い世界
“この状態” が、当たり前に成ったなら
あなたは、もう「そのこと」が気にならなくなる
また「他のどんなこと」でも気にならなくなる
このとき、あなたは必ず “その世界を愛する” ことになるのである